人生はスナップさ! ………… by Geoff Mouldaur
ジェフ・マルダーJAPAN TOUR 2001にお越し頂いた
すばらしいお客様へ

 私のミュージシャンとしての再スタートは97年の秋、イタリアで始まった。その頃、私は落ち込んでいて自分は何をやっているんだろうと思い始めてた。ちょうどそんな時、ボブ・ニューワースが「僕はこれからイタリアへ演奏しにいくんだけど、どんなもんか一緒に行ってみないか」って言ってくれたんだ。私はビジネススーツを脱ぎ捨てて、ギターを抱えてミラノに向った。数日ののち私は Lago Maggiore の近くの小さなホールで、たった独りで観客の前にいた。ちょっと神経質になって。しかし私が私らしい特殊な歌い方を始めればお客の心を掴めると思っていた。でも私が歌いだしても観客は静かに座っていて思い出したように拍手をするだけ。私は自分自身にこう言ったんだ。「確かではないけどやっぱり止めておけばよかったのかな。」翌日からギターを持って練習を始めた。練習に練習をかさねた。フレーズをを何度も何度も弾いて指が痛くなった。エイモス・ギャレットも居ないしスティーブ・ブルートンもたよりにできない。今じゃ自分がボーカリストでありリードギタリストなんだ。お客の事なんてどうでもいいや、どっちにしろ彼等はほんとのイタリア人でなくてオストロゴスじゃないか。演奏旅行は続いた。Pavia のスタリニスタ・バー、スイスにも足をのばした。ロック・クラブでも演奏した。ちっともうまくならなかったけど、練習した。何度も何度も。私はこれがやりたいんだ。これ以上みじめなことはないさ。でも歌いたいんだ。そしてちょうど私が意地になった信念を手にした頃、パレモに南下する飛行機の中にいた。パレモに到着して、ボブと私は忍び足でマシンガンと麻薬検査犬の横を忍び足で通りすぎた。そして食事のあとコンサート会場となったレストランヘ行った。しばらくして演奏時間がきて、ステージに上り自分のすべきことをやった。できた。お客さんが気持ちよくさせてくれた。すばらしいお客だった。たぶん真のイタリア人達も満足してくれたと思う。

 1年後の98年の秋、私は17年ぶりのアルバムを出した。『The Secret Handshake』というアルバムだ。私はそれを持ってまた演奏旅行に出た。私とギターだけで。スコットランド、イギリス、アイルランド、ドイツ、ノルウェイ、カナダ、アメリカ全土、フェスティバル、クラブ、パーフォーミング・センター、ラジオ・ショー、テレビの番組、インタビュー。昔からのファンがやってきてくれた。ジム・クエスキン・ジャグ・バンドとポール・バターフィールド・ベタ−・デイス時代のファン、ブラジル音楽の好きな人たち、ジェフとマリアのアルバムを持った人たち、ジェフとエイモス時代の曲が好きな人たち、自分はなんて幸運な男なんだ。私の新しいアルバム、『Passward』が完成した。それは私に隠れた曲を探究する機会を与えてくれたし、演奏旅行中や新しい私の家があるカリフォルニアのベニスであった人たちとの共演も可能にしてくれた。アルバムはテネシー・ウイリアムスの詩に私が曲をつけた Kitchen Door Blues で始まる。この曲ではポリエステルの王子、デビッド・リンドレ−がラップ・スティールを弾いてくれた。次のカート・ウエイル風な奇妙なアレンジのスリーピー・ジョン・エステスの Drop Down Mama では、ロスの一流ミュージシャンのデイブ・アルビンやリチャード・グリーンが参加してくれた。3曲めはベッシ−・スミスの At The Christmas Ball をクエスキン・ジャグ・バンドの最初のバンジョー・プレーヤーの Bob Siggins や Fritz Richmond のジャグをいれてクワスキン・ジャグ・バンド 風に仕上げた。最初に娘のクレアがリードを取り、私がハーモニーで入る。フランクとナンシーのシナトラ親子みたいな感じで。それに1957年、彼がビックス・ベイダ−ベックのバンドにいる頃に始めて会った Roswell Rudd が超越したトロンボーンを吹いてくれた。マクギャリグル・シスターズは以前から大好きだった。だから去年、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで共演したときから誘拐してでも、次のアルバムに彼等を参加させる計画が始まった。幸運なことに去年の5月にウッドストックで一緒になることがあって、New Gospel Keys という盲目のストリートシンガー達が歌っている古い賛美歌を歌ってもらった。遠い昔、チャーリー・パットンはソフィー・タッカーの歌う Some Of These Days を聞いてその短調の曲を長調に作り替えたに違いない。彼はパットンナイズしたのだ。
 
 時は移り、時々共演するジョン・セバスチャンのJバンドのメンバー、ポール・リッシェルはそれをスローにして賛美歌風にした。つまりポールナイズしたのだ。私はただそれを認識した上でマルダ−ライズして自分の世界に取り入れたのだ。ベターデイズ時代の仲間のビル・リッチがベースを弾きマイク・フィネガンにコーラスに加わってもらった。私が書いたストリングセクションは意図的にセロをはずした。ヴァン・ダイク・パークスの低いアコーデオンを入れるためにである。ニュー・ロスト・シティー・ランブラーズのジョン・コ−エンは次の曲を私がやることに責任を取るべきだ。ある時彼にMary of the Wild Moorsをやると言ったら、「その曲は知っているけどランブラーズではやったことが無いんだ。なぜって、僕らにはありきたりすぎるんだよ」私はそれが聞きたかった。つぎの曲は私の人生を変えた学生時代の友人ワ−ウイック・ボイド(ジョ−・ボイド兄)がコネチカット州のハートフォードの店の地下のほこりだらけの78回転のレコードの中から見つけたブラインド・ウイリ−・ジョンソンの Trouble Soon Be Overだ。ワ−ウイックは私がすてたパティー・ページのレコードの山の中でそれを見つけたのだ。この曲はこのアルバムのためにエレキを入れてゴスペルトリオ風にアレンジし直してある。Light Rain はずっと前にエリック・ヴォン・シュミットと一緒にレコーディングしたことがある。しかし最近、マサチューセッツ州ケンブリッチで行われたエリックの為のトリビュート・コンサートで、彼の為に歌ったのだが、それまでこの曲がこんなにきれいな曲だとは思っても見なかった。新しいバージョンの Prairie Lullaby とBeautiful Isle of SomewhereはThe Secret Handshake が終わってすぐにレコーディングした。Handshake ではサンフランシスコ・オペラの木管奏者達に参加してもらったが、これらの美しい曲の新しいアレンジでまたそれを使いたかった。より完全なものにするためにリチャード・グリーンが彼等に加わってバイオリン、クラリネット、バスーン、とフレンチ・ホーンという組み合わせになった。Prairie Lullaby は古いジミー・ロジャースの曲で私は娘達を眠らせるためによく歌ったものだ。Beautiful Isle of Somewhere は古いメソジストの賛美歌でテキサスの友人が彼のお父さんから習ったのを教わった。それはメソジストの賛美歌のはずだが。去年グラスゴーであった、BBCのためのショーでこの曲を歌ったのだが、公演後一人の男の人がきて言った「Beautiful Isle が曲だったなんてしらなかった。ただ父が私を眠らせるために歌っているのだと思っていた」。K.C.Moarn はハリ−・スミス・コレクションのなかに入っているジャグ・バンドの国歌とも言われるもので、ハリーに敬意を表して行われたハル・ウイルナー・ショーでも何回か歌った。レコーディングでは、ステージのメンバーをふくらませて、友人達に参加してもらった。ケイトとアンナ、ボブ・ニューワ−ス、ボブ・シギンス、フリッツ・リッチモンド、そして友達のジョン・セバスチャンにもハーモニカで参加してもらった。リビング・ルーム・スタイルだ。アルバムは私のブラインド・レモン・ジェファーソンのお墓参りについて歌った Got To Find Blind Lemon Part Two で終わる。私は彼のお墓参りをして、お墓を掃除してきたんだ。

 ずっと前、クエスキン・ジャグ・バンドの頃、スティーブ・アレン・ショーに出たことがあるんだ。そこでステーブはバンドの皆に次々に質問を浴びせた。「ジム、こういったすばらしい曲はどうやって見つけるんだい?」とか、「フリッツ君のサングラスをかしてくれないかい?」とか。そして彼は僕に向ってこういったんだ。「ジェフ、今後の人生をどうやって過ごすんだい?」。私は言葉を失ってしまった。そして私は困惑して「わかんないよ。平和に暮らすことかな」と言うのがやっとだった。そして今、その答えが出たような気がする。世界中を旅して回って、歌を歌い、時々は大きなところもあるけど、ほとんどは小さな場所で。単純さ。自分の好きなことやる。これ以上の事はない。今、日本に戻って来れた。昔の友達や思いでに会いに。
 
 私は今回こそ築地の魚市場に行ってみたい。なぜなら私は心の底では漁師だと思っているから。また横浜へ行って、外人墓地に眠る私の曾祖父にも会いたいし、汽車に乗ってちいさな村や山々を越えて金沢にいき、ロープをはって雪の重ささから木を守るのもみたい。南へ下って福岡や長崎に行って美味しいものを食べて、素敵な女性に会って。そして、すばらしい京都。静かに裏道を散歩して家々の仕組みや形をみる、それから北に向い仙台から北海道へ、ルイベをたらふく食べて、ああ満足。今度も、日本で新しい冒険を見つけるだろう。多分かえる頃には楽しかった思い出と旅の疲れでいっぱいだ。でも私は笑顔で日本の友人達にこう言って帰るんだ。 

人生はスナップさ。


                       2001年2月 ジェフ・マルダー