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麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 1

 4月の末にニューオルリンズへ行ってきました。ニューオルリンズでは4月の末と5月の最初の週、2週にわたって「New Orleans Jazz & Heritage Festival 」という大きなフェスがあります(主に週末ですが)。久保田真琴やジェフ・マルダ−等、過去にそのフェスに行った人たちから「是非行くように」と勧められていたし、今年はヴァン・モリソンも出ると言うので行ってみようかなと。それとニューオルリンズは過去に3度程行ったことがあるので、もし行くなら今回はちょっとちがったルートで行ってみたいな、それもずっと前から乗りたかった『City Of New Orleans号』という汽車に乗って行ってみたいな思ったのです。なぜ今どき汽車かって? 話せば長いことになるのですが、まあこれからずっとこのコラムを続けようと思っているので、その長い話から書くことにします。皆さん、しばしお付き合いを。

 あれは多分、(と言うのも記憶力が著しくかけている僕としてはこういう言い方しかできないので御勘弁を)73年の春だったと思います。友人の黒沢久男がテレビドラマを作ることになり、その3人の主役のうちの1人を「お前がやるんだ!」と言われ、なかば強制的に、何と半年間にも渡る連続ドラマの主役の1人として出演することになったのです。
 ストーリーは、日本の若者3人がアメリカを車で旅行して回るという一種のロードムービーで、当時としては面白い企画でした。僕は当時シンガーソングライターの端くれで、歌を歌っていたのですが、役者なんてやったこともないし、ましてやその相手が渡辺篤史、篠ひろ子と言う有名人。でもアメリカに行けるなら、という単純な理由でオーケーしてしまいました。
『股旅USA』という何ともけったいなタイトルの番組は、そうしてスタートしたのです。
 なんか自分の恥を知られるようで、嫌だなあ。

2001.5.30

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 2

 まあ、とにかくそんな事でアメリカに渡った僕達は、ロスから撮影をスタート。その日程なかばでシカゴに着いた日、僕は新聞でJackson Browneのコンサートの広告を見つけたのです。コンサートといっても、いわゆるクラブ、日本で言うライブハウスでの公演。たしかその前年だと思うのだけど、ジャクソンは新しいレコード会社として僕らの注目の的だったアサイラムレコードから、素晴らしい内容のデビュー・アルバム『Jackson Browne』を出していました。そのジャクソンが見れるというので、僕は何にも知らない渡辺篤史、篠ひろ子他幾人かのスタッフを誘って、たぶん今はもうない「Quiet Night 」というライブハウスに行きました。
 当時ジャクソンはまだ今程有名でなく、デヴッド・リンドレ−と二人だけでツアーを回っており、その時のライブは今思い出しても大変素晴らしいもので、ジャクソンのライブとしては、いまだに僕の中でのベスト1です。リンドレーのラップスティール、フィドルにアコウスティック・ギターの伴奏が、これ以上シンプルにはならないだろうと思えるほど、無駄のない音で要所要所に入ってきて、また最近はあまりハーモニーをつけないリンドレーだけど、あの頃はかなりの曲でハーモニーを歌い、その二人の楽器とボーカルのコンビネーションが抜群だった事を覚えています。(余談になりますが,多分その4、5日後に行われたフィラデルフィアのセコンド・フレットというライブ・ハウスでのブーツレグCDが売られていて、その中でジャクソンが僕たちとシカゴであった事,セッションをした事などをライブ中にかなり長きに渡ってしゃべっているのです。なんと僕はジャパニーズ.カウボーイと呼ばれていました)その日のコンサートが終わったあとジャクソンと話ができて、黒沢明監督の大フアンだと言うジャクソンと、話がはずみそのままホテルの部屋まで行って話し込み、すっかり友達になってしまいました。
 でも今考えると、ジャクソンは僕よりも篠ひろ子さんに興味があったから、僕らをホテルの部屋まで入れてくれたのかも知れないと思えるのですが。今や真相は闇の中。
 余談になりますが、その時ジャクソンとデヴッドが使っていたのがグリアンというアコウスティック・ギターで、その音の良さに後に僕もそのギターを買った程。さらに余談の余談:そのギターは今は小室等氏の手許にあるはずですが、今はどんな音がしているのだろうか。小室さん今度弾かせて下さい。
 さて話がずれてしまいましたが、次回の話はジャクソンではなくステーブ・グッドマンです。

2001.6.4

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 3                                    

 さてその日のライブも佳境に入りジャクソンが1人紹介したい人がいるんだがといって呼び出したのがSteve Goodman だった。あの頃僕がもっとも良く聞いていたアルバムの一つが彼のデビューアルバムだったからこのゲストには驚きました。彼はそこら辺にあったギターを持って登場し、歌い出したのがCity Of New Orleansという曲。
「最初この最高のトレインソングを書いたのはやせてて、背が高く、ひげをはやした男だと思っていた」とジョン・プラインが、いかにSteve Goodman が自分が考えていたCity Of New Orleansの作者のイメージとはかけ離れていたかと言う事をデビューアルバムのライナーノートに書いていたが、たしかに本物の彼は背が低くて、ずんぐりむっくりで、明るくて、ギターが上手くて、気さくなとなりのお兄ちゃんと言う感じだった。しかし僕はそのとなりのお兄ちゃんのSteve Goodman に一目惚れと言うか一聞き惚れしてしまった。
 その日から僕はSteve Goodman のアルバムは全て買う程のSteve Goodmanフリークと化し自分でもCity of New Orleans をレパートリーに加えていた。そしてそのCity Of New Orleansというタイトルが彼が住んでいたシカゴとニューオルリンズを結ぶ列車の名前だという事もわかった。
 つまり僕は、その頃から一度そのCity of New Orleans に乗ってみたかったのです。特に84年に彼が白血病で亡くなったあとは、一度はそのCity Of New Orleansに乗らなければとなかば自分の義務の様に思いつつ現在まで来てしまったのです。
 思い出してもらえましたか、この話は『City Of New Orleans号』という列車の話しだったんですよ。

2001.6.11

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 4

 僕のこの『City Of New Orleans号』で行くニューオルリンズの旅の話を聞いた友人の吉田さんは「それいいよ行こうよ」と、早速旅行代理店に電話してその列車のチケットを押さえてしまったのです。
 僕と友人の吉田さんと彼のお姉さん家族、それに友人達、総勢9人の『City Of New Orleans号』で行くニューオルリンズへの旅はこうして始まったのです。さて『City Of New Orleans号』はシカゴを夜の8時に出発してイリノイ州を南下、ちらっとケンタッキー州をかすめてテネシー州に入りメンフィスで一端止まり、ミズリ−州をふたたび南下してルイジアナのニューオルリンズに到着する。ほぼ10時間の汽車の旅だ。当然寝台車や食堂車それに展望車もついている。
 さて吉田さんのお姉さんは昔からの音楽好き。姉思いの吉田さんからメンフィスを通るなら途中下車してグレースランド詣をしようよという提案があり、もちろんエルヴィス大好きの僕も賛成。こうしてシカゴ発メンフィス経由ニューオルリンズ行きという今回の旅のスケジュールがきまったのです。
 それぞれ忙しい人たちなので待合せはシカゴのユニオン駅に決まり、 皆そこの待ち合い室に6時頃に集まって8時の汽車に乗るのだという。いくら旅なれている人たちでも行った事もないシカゴのユニオン駅で会えるのかなという心配をしたいたら、吉田さんがアメリカで使える携帯電話をかりて皆にその電話番号を教えてくれました。何かあったら携帯で連絡を取るという事になったので少し安心しました。ほとんどの人は成田とニューヨークから当日の飛行機でシカゴに入るスケジュールだったのですが、僕は前日にシカゴに入り、当日の昼にシカゴのインディー・レーベルの人と会って、それからJazz Record Martでジャズの中古レコードでも探して、駅に行こうかというスケジュールを立てたので余裕でした。
 当日5時くらいに駅に着いた僕は、待ち合い室に行ったのですがだれもいない。まあそのうち来るだろうと思いその待ち合い室で待つ事30分。だれもこない。そのうち飛行機が遅れたのかなと思い、携帯に電話したけど返事なし。しばらくしてもしかして待ち合い室がもうひとつあるのではと思い、荷物を持って歩き出したら、向こうから見なれた顔がやってきて、「どうしてたんですか心配してましたよ」。何と皆はファーストクラス用の待ち合い室で待っていたそうな。でも会えて良かった。
 という事でメンフィス経由ニューオルリンズ行き御一行様9人は、無事8時にシカゴを出発したのです。

2001.6.18

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 5

City of New Orleans by Steve Goodman

シティ・オブ・ニューオルリンズ号に乗って
イリノイ・セントラル駅月曜日の朝
15両の列車と15人の眠らないお客
3人の車掌と25個の郵便袋
南に向う放浪の旅
列車はカンカキーの街を通過して
家々、畑、野原を通りすぎ
名もない街や黒人でいっぱいの貨物場や
さびた車の墓場を通りすぎる。

chorus
お早う、アメリカ、元気かい
僕は君の息子なんだよ
皆は僕を"City of New Orleans号"と呼ぶんだ。
1日が終わるまでに500マイルも走るんだ

クラブカーの老人とカードで遊ぶ
掛け金はわずか、だれも計算なんかしていない
お酒の入った紙袋をまわしてくれよ
床下の車輪の振動がわかるかい
客室付きのポーターの息子達、エンジニアの息子達
父親の作った鉄でできた魔法の絨毯に乗っている
母親と赤ちゃんは優しいビートに揺られて眠っている
汽車のリズムは彼等を夢へとさそう。

chorus

シティ・オブ・ニューオルリンズ号の夜
テネシー州メンフィスで客車を変える
もう半分、朝には家に着く
ミシシッピーの暗闇を海に向って
すべての街や人々が悪い夢の中に消えてゆく
古い鉄道から新しいニュースは聞こえてこない
車掌が歌を歌い始め、お客がコーラスをつける
この汽車はまるで消えてゆく鉄道のブルースの様だ。

これがSteve Goodmanの最高傑作City of New orleansという歌の訳です。

 列車がシカゴを出ると何度か進んだりバックしたりして本線に入っていくのですが、新幹線になれている我々としては、これが何とも懐かしい感じで、いってみれば昔の列車が進んだり戻ったりしてだんだん高度をあげていくのを思い出しました。そんな事をいっても今の若い人たちにはわからないでしょうね。昔はその行ったり来たりのスイッチバックとかアブト式といってチェーンを絡ませて戻らないようにして列車は山を上ったものだったんですよ。まあそれはどうでもいいとして、列車はシカゴを出て本線に入るとすぐに食事になります。そしてその間に客室付きのポーターがベッドを作ってくれる。食事もアメリカの食事としてはまずまず。新幹線に食堂車がなくなってから久しいが、この列車での食事というのも結構いいものだ。もちろん外は真っ暗でほとんど見えないんだけど。
 食事が終わってそれぞれの部屋に戻ってもなんか修学旅行状態で、また皆で一部屋に集まってひとしきり雑談。僕と同室の某出版社のMさんは風邪気味という事で早くに就寝。僕も明日の事を考えて、何せ明日はエルビス御殿、Sun record, Beale Streetと目一杯スケジュールが入っているから早めに寝る事にした。個室の中には2段ベッドとシャワー室とトイレが付いている。ビールを持ってベッドに横になると、あのCity of New orleansの歌詞が頭をよぎる。

”お酒の入った紙袋をまわしてくれよ
床下の車輪の振動がわかるかい
客室付きのポーターの息子達、エンジニアの息子達
父親の作った鉄でできた魔法の絨毯に乗っている
母親と赤ちゃんは優しいビートに揺られて眠っている
汽車のリズムは彼等を夢へとさそう。”

 ほんとにその通りに僕は車輪の振動が作るビートに揺られながら眠ってしまった。

2001.6.25

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 6

 あれは何時頃だったのだろうか。目がさめて窓の外を見るともう明るくなった街が見え、人や車が動きだしている。顔を洗って降りる準備をしていると、車内放送でもうすぐメンフィスですというアナウンスが入る。メンフィスには6:30頃に着くはずだ。
AMTRAKという言ってみれば日本のJRのような会社がだしているCity of New orleansのタイムテーブルによると、6:29分メンフィス着、6:55分メンフィス発となっていて距離をみると529マイルとある。"1日が終わるまでに500マイルも走るんだ"という歌詞のとうり確かに500マイル走っていた。
降りる準備をしていると列車はメンフィス駅に着いた。日本とちがい列車にあわせたプラットフォームはなく言ってみれば地べたにコンクリをはっただけのフォームに降りると、朝と言う事もあってか、かなり涼しい。メンフィス駅にはホテルから迎えのバンが来ているはず。だがそれが居ない。きちっとしたスケジュールをたてる吉田さんがあわててそれをセッティングした息子さんに電話を入れる。彼はサンフランシスコにいるから朝の3時頃。申し訳ない。でも起きてすぐの僕達は待ち合い室のコーヒーとかパンフレットを見て時間を潰したので全然問題なし。しばらくすると僕らの乗ってきた列車が動きだした。City of New orleansの歌詞によると、メンフィスで列車を変えるはずなのに。僕はSteve Goodmanがこの歌をいつ作ったか知らないのだけど、もしかしたら昔はメンフィスで車両交換をしてたのかも知れない。またCity of New Orleans は同じ名前でニューオルリンズ発シカゴ行きもあるのでそちらは交換するのかも。
 列車が出たあとハートブレーク・ホテルの迎えのバンがやってきた。
そうです僕らはグレースランドにある、あのハートブレーク・ホテルに泊まるのです。やっと起きだしたばかりのメンフィスの街を走ってバンはグレースランドへ。メンフィスに来るのは何年ぶりだろう。この前来たのはたしか長門君と一緒にトニージョー・ホワイトのインタビューをした時だからもう22年前になる。あの時はハイのスタジオでアン・ピーブルス&ドン.ブライアント夫妻やウイリー・ミッチェルなんかともあった。キンキー・フリードマンのライブも見た。なんて書いてるけどこれは全て長門君が教えてくれたもので、僕はほとんど覚えていなかった。たしかあの時もグレースランドの前まで来てこれがプレスリーの家かと思いモテルに戻った事は自分でも覚えている。そのグレースランドに着いた。朝早いのでチェックインは無理かと思っていたらすんなり入る事ができて、シャワーを浴びて、長いメンフイスの1日が始まった。

2001.7.3

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 7

 ハートブレーク・ホテルは意外にこじんまりしたホテルで、ロビーにおいてあるイスとかが紫色だったりする事と、流れている音楽がすべてプレスリーで、ビデオももちろんプレスリーの映画だと言う事をを除けば、普通のホテルとあまり変わらない。
 道を隔てた向こう側が、グレースランドだ。ホテルに隣接しているお土産やさんと車なんかをおいてあるミュージアムの横のバス乗り場へ行くとツアーのチケットを売っている。
 ツアーと言ったって道の向こう側のグレースランドへ行って敷地内にあるいろんな建物に入って中を見て、プレスリーのお墓参りをするというだけなのだが、これをバスに乗せて道を超えるところがなんともプレスリーっぽくっていい。もちろん本人が考えたわけではないんだろうけど、プレスリーがいてもこうゆう風にやったんではと思わせるところが良い。バスに乗り2、3分走って信号。で信号を超えて向こう側に着くともうそこはグレースランドだ。よく手入れされた芝の中に作られたアスファルトの道路を曲がりながら少し上がると玄関だ。そこでバスを降りて屋敷の中に入るのだけど、前にも書いたけど、このお屋敷が意外にこじんまりとしている。イギリスとか、フランスのなんとかマンションみたいに見上げると言う事がない。へたしたらこれくらいの家は日本でも房総半島のなんとかという高級住宅地へ行けばありそうだ。そんな事を思いながら中に入るとそこはやはりプレスリーの世界だ。当時としては最新鋭だったであろうステレオやテレビがあるオーディオルームやピアノを置いてあるミュージック・ルーム。これまた意外に質素なダイニングとキッチン。両親のベッドルーム。多くの取り巻き達と談笑したであろうリビングルームやプールルーム。この母屋を出て次の建物に行く途中、あのプレスリーがこの程度の広さの家で、暮らしていたのは、もしかしてすごい寂しがリやで、常にだれかと接していたかったのではと思ってしまった。外に出て母屋、(この場合メインビルディングと言うべきですね)の裏手にある元事務所、ここはまさに50〜60年代の彼の事務所そのものと言った感じで、置いてあるオフィス用具まで、ほぼ昔のままでシックスティーズしている。そしてそのとなりがたぶん後で作ったラケットルーム。プレスリーが後年あのからだでラケットボールをやっていたとは信じがたいが、そこを抜けてさらに行くと、そこが今は彼の衣装とかゴールドレコードとかが展示してある部屋になっている。ここはさすがエルヴィス。あのヒラヒラの付いた白いやつとかその他いろいろあって、多分この手のものが好きな人にはたまらないだろうし、本人がそう言う事を考えて作ったのではないにしろ、ポップスの歴史的な見地からみても貴重なものだと思う。建物を出て道順にそって先へ歩くとそこはプレスリー家のお墓だ。両親と本人、それにおばさんだったか、お婆さんのお墓が並んでいる。なんでも以前は他の場所にあったものをここに移動させたらしい。ビジネスとは言え、お墓まで持ってきてしまうというのがすごい。でも見る方はここで全て済んでしまうのだから有り難い。これもどちらかというといわゆる、ごく普通のアメリカのお墓にちょっと毛がはえたくらいのものでキングエルヴィスといった感じではない。
 まあ外国のお墓は総じてシンプルなものが多いけど、あのエルヴィスにしてはやはり地味だ。でもさすがにいつでもお花がきれる事はないし、命日にはそれはそれは大変な花と人で埋まるらしい。その時期は世界中から彼のお墓参りに来て、このグレースランドをみて、人によってはたしかティペロという小さな街にある生家も訪ねるという。
 でもそれもいつまでつづくのだろう。あのエルヴィスのほんとにカッコ良かった時代を知っている人はだんだん少なくなるのだから。そんな事を考えながら叉バスに乗り、道を渡りエルヴィスの車とか飛行機が展示してあるミュージアムへ。彼の乗り物好きも有名でバイクや車もずいぶん持っていたらしい。というのはそのうちの多くを誰某の誕生日とか結婚祝いとかであげてしまったとどこかで読んだ事がある。まあ乗り物好きの僕としての意見を言わせてもらえるなら、彼の乗り物の趣味はあまり良い方ではない。いってみれば金持ちが金にまかせてといった感がある。同時代のジェームス・ディーンやスティーブ・マックィーンも乗り物好きとして知られているが、エルヴィスとははちょっと違う。彼等がポルシェやBSA、トライアンフといった外国製のもの、それもかなり通好みのものをを好んだのとは違い、エルヴィスはやはりキャデラックやハーレーといった良き時代のアメリカ車、それもどっしりとしたものが好きだったようだ。でもそれが似合うという点では彼の右に出る人はいないだろう。ミュージアムにはロールスロイスなども展示してあったがなんか違うという感じがした。そこを出て2台のジェット機をみてグレースランド・ツアーは一応終わり。後はお土産やさんでお好きなものをという事になる。

2001.7.12

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 8

 グレースランドツアーが終わった僕らは、吉田さんのたてたスケジュールどうり次の場所、サン・レコードへとシャトルバスに乗った。
僕ら正体不明の日本人9名、50'sのロッカーぽい格好をしたカップル、それにアジア系の奥さんとアメリカ人の旦那と子供達のファミリーと言ったなんとも言い様のない組み合わせの人たちがこのバスに乗ってサン・レコードへと向ったのだが、どうも50'Sぽいカップルは話を聞いていると道もイギリスの人の様だ。わざわざイギリスからここまで来たのかな、なんて思ったがよくよく考えれば自分達だってわざわざ日本からここまで来てるのだ。それがわかってからはこのカップルに何となく親近感が湧き笑顔をかえしたりしてしまった。
 その頃になると日本人組は皆時差ぼけが出はじめて何となく動きがおそい。それでもサン・レコードでシャトルをおりると皆それぞれにスタジオの2階にあるお土産屋に入って、ショッピング。僕はあまり欲しい物がなかったのだが、唯一Peter Guralnickという人の書いたSweet Soul Musicというずっと前から読みたいと思っていた本があったのでそれを買った。お土産屋から1階に降りるとコーヒーショップみたいな部屋があって、皆そこで飲み物を頼んだりして休んでいた。というより時差ぼけでほとんどボーツっとしていただけと言った方がよい。そうこうするうちにスタジオのツアーガイドをする人が来て、サンレコードツアーの人はこちらにと呼び込む。いよいよサンレコードスタジオツアーだ。ツアーと言ってもスタジオは道に面している部屋で、ツアーガイドがドアをあけると、もうそこがサン・スタジオだ。一時期サン・スタジオがなかった時期があって、その時この部屋は床屋だったと言う話を後でスタジオのツアーガイドが言っていたが、まさに床屋にうってつけの部屋と言ったらその部屋がどんな部屋か分かってもらえるだろうか。つまりスタジオと呼ぶには余りにも普通の部屋なのである。でも、 ものの本にに書いてあるとおりここはまさしくロックンロールの生まれた場所なのである。エルビス・プレスリーが、ジェリー・リー・ルイスが、ジョニー・キャッシュが、BB・キングが、ロイ・オービソンがはじめて自分の声をテープにに記録した由緒正しい普通の部屋なのだ。そのような事をツアーガイドのお兄ちゃんが説明するのだが、このお兄ちゃんがカッコつけていて、部屋に置いてある今どき日本では小学生だって使わないようなチンケなカセットデッキにテープをセットしておもむろに説明の始まりだ。そのちょっとした説明の後に曲をかけるのだが、こいつが叉以外とここの雰囲気にあってる。プレスリーがこれこれ然々と言った後にプレスリーの曲をかけたりするわけだが、なんかこの壊れかかったようなカセットデッキから出てくる音が、もしかしたらあの当時はこんな感じの音だったのでは思わせてなかなかの雰囲気だ。
サム・プィリップスの秘書がプレスリーを推薦した話しとか、ジェリー・リー・ルイスのはなしとか、言ってみればもうすでに本とかに出ている話がほとんどなのだが、これがその話しの後にテープの音が出てくると何となく、そうか当時はそうだったんだと思わせるから不思議だ。ただこれからメンフィスに行ってサンレコード巡りをしようと思っている方がいたら、このサンレコード・ツアーにあまり期待しないほうが良い。ああここにサン・レコード・スタジオがあってここでプレスリー達は最初のレコーディングをしたんだな、位で納得すれば良いのである。それとそのお兄ちゃんの説明とカセットテープの音を聞く、それとスタジオで昔プレスリーが使ったであろうマイクを貸してくれるので思い思いのポーズで写真を取るそれで十分だと思う。
 さて時差ぼけでサン・レコードではボーツとしていた我々も、またシャトルバスに乗って次の場所、あのメンフィス音楽の中心地ビールストリートに着いた頃には元気を取り戻し、ギターのギブソン社のそばに出来たメンフィス・ロック&ソウル・ミュージアムへと向った。あまり期待しないで入ったのだが、これが何と大めっけもんのミュージアムで、僕などは皆におくれる事30分、隅から隅まで見てしまった。あのスミソニアン・ミュージアムが監修していて、素晴らしいく良くできていて、古くはブルースの時代からソウルそしてロックの時代までメンフィスの音楽の歴史を、当時の人たちの生の声(もちろんテープやビデオでだが)や映像を交えて分かりやすく展示してある。当日はパッツイー・クラインを特集していたが、とにかくメンフィスに縁のあるミュージシャンはほとんど登場しているし(ジム・デッキンソンのコメントなどもあった)展事物も地元ならではといった物が多く素晴らしい。できればもう一度ゆっくり来たいと思った程だ。ロック、ソウル音楽に興味のある方には絶対お勧めの場所だ。
 我々はそこを出てメンフィスの音楽というかエンターテイメントの中心街だったビール・ストリートに行った。ここには昔来た事があるのだが、その当時と比べると別の通りになったかと思える程、すごくきれいになっていて、BBキング他アーチストの名前が入ったライブハウスが軒を並べている。ただ時間が早かったので街をぶらぶら。すると通りの中程にジャンク・ストアーみたいなのがあって、皆そちら方面の好きな人ばかりだったので、中に入って1階と2階を隈無く探検。今どき珍しい程のジャンクとデッドストック物の宝庫。それも安物ばかり。ここも時間があれば半日くらい居たいと思ったのであります。
 そしてビール・ストリートでバーベキューを食べて、又シャトルバスでハートブレーク・ホテルへと戻ったのであります。今日もまた長い1日だったけど、充実した1日でした。 明日はまたCity Of New Orleans に乗っていよいよニューオルリンズです。

2001.8.6

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 9

 前日、朝の6:30にメンフィス駅に着いた僕らは、ほぼ丸一日メンフィスの街を回って充実した1日をすごした。さすがに僕は疲れたのでホテルに戻った後は部屋でエルビスの映画を見ながら寝てしまった。そのせいか朝早く目がさめてしまってカフェテリアにいったのだが誰もいない。しばらくしてコーヒーとパンと果物が出てきたが列車で朝食が出るのでコーヒーとバナナだけにする。6時50分発の電車に乗るので、 皆も6時にはロビーに揃って、又お馴染みのシャトルバスで駅へ。
 メンフィスから昨日と同じように、シカゴから到着したCIty Of New Orleans号に乗ったのだが、今度は寝台付きの部屋ではなく普通のイスにセットしなおした部屋だ。荷物置き場にバックを置き部屋を確認していると列車は静かにメンフィスを出発。僕らは早速食堂車へ行って朝食をオーダー。前にも言ったがこの列車の食事はけっこういける。朝食も4種類くらいの中から選べるのでちょっとしたホテル並みだ。僕は流れていく窓の外の気色を眺めながら朝食を食べるというのが好きで、昔新幹線に乗ると必ずと言って良いくらい食堂車に行ってたのだが、なんで新幹線の食堂車は無くなってしまったのだろうか。より早くが優先されてしまったからだろうか。
 食事が終わるとそれぞれに部屋に入って休憩。さすが昨日がハードスケジュールだったので眠る人が多い。僕は成田で買った小田実のなんでも見てやろうを読みはじめた。僕らの世代が若者だった頃、この本を読んで海外に出かけた人がどのくらいいたのだろうか。当時この本程、海外というものを身直に感じさせてくれた本はなかった。僕自身当時何度も読み返して、いつか自分も外国に行くんだと心に決めた記憶があるが、こうして今読み替えしてみてもほんとにおもしろい。さすがに40年の時の流れは感じるが、当時日本の若者がたった1人で世界を回った行動力と、それぞれの場所や人を見る彼の冷静な観察力に感心する。
 テネシー州の南の端のメンフィスを出て南下するとすぐミズリー州だ。ひさしぶりにゆっくり本を読みながら時折窓の外を見るのだが景色があまり変わらない。以前シカゴからロスまで列車に乗った事があるのだが、ニューメキシコとかアリゾナあたりに行くと1日中ほとんど景色が変わらなかった記憶があるが、ミシシッピー州辺りもそれに近い。こういう所を見ていると、いまさらながらアメリカは広いなあと思ってしまう。
 そうこうするうちにYazoo Cityに着く。この街の監獄を歌った唄にYazoo City Jailというのがある。メンフィスのミュージシャンで、The Mar-Keysというバンドで後のMG'sのスティーブ・クロッパーやダック・ダンと一緒にプレーして後にプロデューサーになったダン・ニックスが書いた曲で、ロジャー・ティリソンというオクラホマ出身の歌手が歌ったのしか聞いた事がないが、この曲を聞いてから一度そのヤズー・シティーの監獄を見てみたいと思っていたのだが、今回はヤズー・シティーの駅を見る事で我慢しよう。機会があったら是非そのロジャー・ティリソンのレコードを聞いて欲しい。
列車はその後ミシシッピー州の州都ジャクソンを経由してどんどん南へ下がる。
 そしてハモンドと言う所でついに目的地ニューオルリンズのあるルイジアナ州に入る。ハモンドを過ぎるといわゆるスワンプらしい所に入っていく。列車の両脇が沼と言うより、これがやはりスワンプと言うのだろうとしか言い様のない水草の様なものが生い茂った、(言ってみれば日本の水郷、そうあの潮来のイタロウの水郷です。それをばかでかくしたものと思っていただければよいとおもいます)沼地の中を進んでいくのですが、僕はいよいよニューオルリンズに近づいた事もあってそわそわしだし、吉田さんの部屋(コンパートメント)からは懐かしのオールディーズがかかって、通り過ぎる人がハミングしたり、なんか皆ニューオルリンズに近くなり何となく心が浮き浮きしだしたようだ。
 そして先頭の方で汽笛が何回か鳴ってついに我々のめざすニューオルリンズに列車が到着した。これで僕がずっと乗ってみたかったあのCity Of New Orleans 号の旅も終わりだ。何となくこれでやっとスティーブ・グッドマンのお墓に御参りできた様な安堵の気持ちが沸き上がってきた。
 ホームに降りて駅を出てホテルまで歩く。さすがここまで来ると4月と言うより6月か7月くらいの気温だ。汗をかきかきホテルに入ると、 さすが大きなフェスらしく人は大勢だし、あちこちにパンフが置いてあって、いやが応でもフェスティバルにきたんだと言う気分にさせられる。

2001.8.27

麻田 浩 ニューオルリンズへ行く Part 10

 4月27日の夕方4時頃にニューオルリンズに着いた僕達はすぐにホテルにチェックインしたのだが、シャワーを浴びたりしていたら6時近くになってしまった。5時25分からアル・グリーン、5時55分からゲイトマウス・ブラウンがあるのは知っていたが、それから会場に言ってチケットを受け取ってショーを見て帰ってきて食事にいくのはちょっときつそうなので、その日のライブは諦める事にして食事にいく事にした。このニューオルリンズ・ジャズ&ヘリテージ・フェスティバルは他のフェスと違ってコンサートは夕方の7時に終わる。お客さんはコンサートが終わると、町の中心部から少し離れている会場から町に戻り食事をしたり、ウインドウ・ショッピングをしたり、ライブに行ったりしてニューオルリンズの夜の部を楽しむ。
 そんな状態だから遅れて参加を決めた僕達は多分、大変そうだからと有名どころのレストランに日本から予約の電話を入れたのだが、案の定どこも一杯。ジェフ・マルダーの知り合いなどに頼んだのだが、この時期早い所は1年前からの予約でいっぱいだとばかにされてしまった。でも早い時間ならと7時からニューオルリンズ在住の友人の進めるフランス料理屋が予約できた。幸いホテルから歩いていける距離なので皆でロビーに集まって歩いていく事にした。それまで三回程ニューオルリンズ来た事があるのだが三回ともフレンチクオーターやバーボンストリートに近い所に泊まっていたので夜がふけてもたくさんの人でごった返していたが今回はスーパードームの近くのホテルで街の中心部から離れているせいか比較的静かだ。5、6ブロック程下がった所にあるそのレストランはこじんまりとしていて料理も美味しそうだ。9人の日本人がそれも普通で無い僕らが入って行ったんで、前からいたお客さんが、物珍しそうに僕らの事をみていた。
 そんな好奇心一杯の目にもまげず、みんなはわいわい言いながらワインを頼んで乾杯。それからみんなでそれぞれに料理を頼んだ。ここを紹介してくれた友人がかなりのグルメだったから料理の味に関しては心配していなかったのだが、嬉しかったのはスモール・ポーションがあることだった。僕は小食なのでアメリカの料理の量の多さにはいつも悩まされていた。だから普段だと何人かと一緒にオーダーして半分ずつ食べるところをその日は自分のすきな料理を食べられた。ついにアメリカのレストランにもこういうサービスができたかと感激してしまったる。。アメリカの食文化もこの店の様に”たくさん食べる”から”ちょっとずついろいろ食べる”に変わってくれたら好いのに。
 ニューオルリンズのクリオール文化は基本はアフリカとフランスの混血だから、フランス料理が美味しくても不思議ではないのだけど、 ニューオルリンズの食通達は最近のニューオルリンズは観光地化してしまい昔のような美味しいフランス料理が多ベられなくなったと嘆く、でも僕ぐらいの食べ好きには、量と言い味と言い十分すぎる程美味しかった。
 結局僕の二ューオルリンズ初日はアル・グリーンも見ずに、夜のバーボン・ストリートにもいかずに寝てしまったのだが、もちろん町中のライブハウスは夜遅くまであいていて、ローカルのミュージシャンやフェスの出演者による、特別コンサートなどが行われた。多分バーボン・ストリート辺りは大変なにぎわいだったに違いない。たぶんこの時期のニューオルリンズのミュージシャン達はとてつもなく忙しいのだろうし、お店は掻き入れ時だろうし、観光客は楽しいだろうし、ニューオルリンズにいる人達はこの時期、みんな幸せなのだろう。ここらへんに街との共存を考えている主催者の気配りが感じられる。ジョージ・ウエインさんなかなかやりますな。日本でもこんなフェスをやりたいなあ。





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